『儚葉曼荼羅』はなぜ見飽きないのか?

重なりとズレが織りなす新しい空間の出現

古谷利裕

1.

掬矢吉水のデザインによるKENSOのアルバム『An old warrior shook the Sun』のジャケット(『儚葉曼荼羅』)は、いつまで見ていても見飽きずに、時間をかけて見れば見ているほどに面白く、目を惹き込んでいく魅力がある。この画像が、なぜ、そして、どのように魅力的であるのかを、主に近代の絵画作品と比較しながら、考えてみたいと思う。

An old warrior shook the Sun 儚葉曼荼羅 - Mandala of Evanescent Leaf, yoshimi kikuya (2024)

2.

まず、一見して目につくのは、エッシャーの作品を想起するような、図と時の反転構造がみられるという点だ。下の図は、エッシャーの『Day and Night』(1938年)という作品。画面の向かって左側が昼間を、右側が夜を表現している。左側の昼の部分では、鳥が、白い背景の上に黒い形として描かれている。対して、右側の夜の部分は、黒い背景の上に白い形として描かれる。左から右へ、黒い図柄と白い背景(地)から、白い図柄と黒い背景(地)へと、昼から夜へと、中間にグレーのグラデーションを挟みながら徐々に移行していく。中間部分では、黒い鳥と白い鳥とがぴったり接していて、黒い鳥を見る時は白が背景となり、白い鳥を見る時は黒が背景となるというように、一方が図であるときに他方が地になる。どちらでもあり、どちらだともいえない、互いに反転し合う構造が作られている。

Day and night Maurits Cornelis Escher • Print, 1938, 39.1×67.7 cm Day and night, Maurits Cornelis Escher (1938)

このような反転構造は、画面を一挙に把握できず、今、目がどの部分に注目しているのかによって画面の構造が変化することによって画面に動きを作り出す。また、図と地の二項的な反転の衝撃は、中間のグレーのグラデーションによって柔らかく吸収され、そこに保留の時間が生まれ、昼から夜、夜から昼への緩やかな時間の推移さえ感じさせるだろう。

『儚葉曼荼羅』では、繁茂する植物(葉っぱと茎)が描かれ、左下から右上にかけてグラデーションが作られている。左下では、主に葉っぱ(図柄)が黄色で背景(地)が濃紺であり、右上ではそれが逆転して、主に葉っぱ(図柄)が濃紺であり背景(地)が黄色である。しかしこちらの画像では、中間部分のグラデーションがエッシャーに比べてはるかに複雑で豊かな階調を持っている。

ネイビーブルー、ターコイズブルー、クロムグリーン、抹茶色、黄土色、焦茶色…、色の「名」ではとても表し切れない多様な色彩の変化と、その細やかな階調の推移とによって中間部分がより複雑に形作られている。エッシャーの絵のような、昼から夜への一方向へ進むなだらかな変化ではなく、何度も行きつ戻りつしたり、混じり合ったり、旋回したり、あるいは飛躍したりもするような、入り組んだ階調の変化が作られ、それが、視線の複雑な運動を誘っている。この視線のさまよいのなかから、ただ一方向に進むだけではなく、行ったり来たりし、旋回したり、一度旋回したものを包み込んだり、というような複雑に絡み合う時間の推移の感覚が浮かび上がる。

過去が現在に影響を与え、現在が未来に影響を与えるという一方的な因果の連鎖だけでなく、未来の出来事が現在や過去へと遡及的に影響を伝えてもくるかのような、網目状に広がったり、行き来したりする時間の経験を語る物語のようである。

3.

またこの『儚葉曼荼羅』では、砕いた色タイルを組み合わせたモザイク画のような形式が用いられている。ただし、通常の装飾的モザイク画と異なる点は、平面的ではなく奥行きを持つ三次元的な空間性が感じられるところだろう。繁茂する植物の向こう側に深さを伴う広がりを感じる。だがこの奥行きは、いわゆる遠近法的な作図によってもたらされるものではない。

左下の、ぎゅっと凝集的にある濃紺の領域に対し、右上に拡散的な黄色の領域が広がっているという画面全体で統一された配置が、奥行きの基本的方向性を示している。しかし、それだけではない。

近代絵画における似たような実践に、画面を、切子面状の細かい切片へと分解し、その切片を用いて遠近法的な空間とは異なる空間性を再構築しようとする試みとしての(分析的)キュビスムがある。下図は、ブラックが1910年に描いた『Violin and Candlestiks』という作品。この作品の特徴として、本来なだらかに連続している空間が、水平、垂直、斜めの線で仕切られるいくつもの小さな空間的切片に分割されていること、そして、モノと空間とか明確に仕分けられずに一体化していること、が挙げられる。たとえば手前にあるヴァイオリンは、空間そのものを仕切る切片の中に、半ば埋没しつつ、半ばその形を浮かび上がらせている(一枚板からの浮き彫りにされるような描写)。

つまりここではまず、三次元的、遠近法的な空間が、(グリッド的に仕切られた複数の切片が、浅い奥行き差をもって押し合いへし合いするように前に出たり後ろに退いたりする)振幅する浮き彫的な空間に翻訳されていて、その浮き彫り的な空間の中からモノの形や配置のリズムが、かろうじてそれとわかる程度に浮かび上がってくる。

これによって、画面上に、モノと空間、前景と背景というような明確な「価値(意味)」の差をなるべくつけることなく、画面のすべての場所ができるだけ同じ強さ・同等の価値を持つような画面を作ろうとしていると考えられる(「まったく同じ価値」になるとただの平坦になってしまうが)。このような作品でも、(エッシャーと同様に)空間全体を一望することができずに、画面への注目の仕方や場所によって、ある部分が前に出てきたり、同じ部分が引っ込んで見えたりする。視線の向け方によって画面のありようがダイナミックに変化する。

エッシャーの作品では、図と地の反転というはっきりした構造変化があり、その急激な見え方の変化の衝撃を、グレーのグラデーションの領域が吸収する感覚だが、ブラックの作品では、画面の部分部分で細かく前後関係の押し合いへし合いがあり、それらが全体に波及して、空間が振幅するような運動が生まれている。

Violin and Candlestick, Georges Braque (1910) Violin and Candlestick, Georges Braque (1910)

4.

『儚葉曼荼羅』に戻ってみよう。ブラックの絵画において、モノと空間、前景と背景とは、注目の仕方によって、ある時はモノが強く前に出て、別の時は空間そのものが強く前に出るという風に振幅することで、時間差をもって画面全体が「同じ強さ」を実現していた。だが画面全体の同等性は、画面がモノクロームといっていいくらいに抑えた色幅で統一されていることによって実現されている(色彩の違いは「価値」の差を作ってしまう)。また、浮き彫り的な浅い空間の振幅は、陰翳の効果によって作られている(陰影法は色彩を濁らせる)。つまり、「色彩」という面で消極的な表現しかできていない。

しかし『儚葉曼荼羅』においては、抑制されているとはいえ非常に豊かな色彩を感じさせる表現がなされている。大きく見れば、濃紺と黄色という二項があり、それを媒介する中間項として、抹茶色、黄土色、焦茶色がある。ここで重要なのは、明度の高い黄色と明度の低い濃紺との対比が、決して「光と影(陰影)」という関係になっていないというところだ。濃紺は、それ自体として澄んだ色彩であって、決して影ではない。

ここで有名すぎるほど有名な例を挙げる。マネの『笛を吹く少年』(1866年)だ。この少年の着ているシャツはベタ塗りの黒であり、シャツには陰影的表現がまったくない。ベタ塗りの黒でも、シャツのフォルム、袖口の表現、ボタンの配置、襷の描き込みなどによって、充分な立体感を表現できる。ここで、陰影から解放された「黒」は純粋な色彩であって「暗さ」ではない。マネは「光輝く明るい黒」を発明した画家だと言われる。ブラックの絵の「暗さとしての黒」と、マネの絵の「色彩としての黒」との違いは一目瞭然だろう。

(近代絵画の主要なミッションのうちの二つに、遠近法と明暗法からの離脱、があるだろう。前者は主に、画面のすべての場所を「同じ強さ」とすること、後者は主に、濁りのない純粋な色彩の力を最大限発揮させること、という要請によるだろう。近代絵画の平面化は、平面化そのものが目的なのではなく、この二つの要請から導かれたのではないかと思う。)

The Fifer, Édouard Manet (1866) The Fifer, Édouard Manet (1866)

5.

『儚葉曼荼羅』には、二つの異なる「形の単位」が共存している。一つはモザイク的に画面を構成する「砕かれたタイル」そのものの形。もう一つは、描かれたもの(葉っぱと茎)の形、図像。

ジャケットの画像を見るとき、色彩的には、濃紺と黄色とが中間項を介して包み合うように絡み合う様を見るのだが、それと同時に、形態的には、単位の形(タイル)と描かれた形(葉っぱと茎)とが相互干渉的に絡まり合う様を見ていると言えるだろう。

砕かれたタイルは、多様な形を持ち、多様な色彩を持ち、さらに、多様なテクスチャーをも持つ。ここで特に驚くべきなのは、そのテクスチャーの多様さだ。もし、物理的、物質的なタイルを用いて同様の作品を作るとしたら、事前に、どれだけの量のタイルを用意しなければならないだろうかと考えると途方にくれる。特に、色彩の中間項(抹茶色、黄土色、焦茶色)を構成するタイルのテクスチャーの豊かさは、ジャケット画像の、いくら見ても見飽きず、見れば見るほど惹き込まれる味わいの深さを形作る重要な要素となっている。つまり、単に物珍しいテクスチャーがたくさんあるというのではなく、極めて限られた色彩や調子の幅の中で、多様なテクスチャーが実現されている。

6.

画面を構成する単位の形と、画面に描かれている(表象されている)ものの形とが、それぞれ自律的に拮抗しているといって連想されるのが、晩年のセザンヌだろう。晩年のセザンヌは、何を描くときもほぼ同一のタッチを用いて、ほぼ同一の色彩の組み合わせで描いている。

下に示す二枚のセザンヌの絵画は、1904年に描かれた『サント=ヴィクトワール山』と、1905~6年に描かれた『座る農夫』だ。一方は山を見渡す広大な風景で、もう一方は庭の片隅に座る人物だが、どちらもほぼ同一のタッチ、同一の色の組み合わせによって表現されている。

ここで、たとえばスーラのような光学的点描とセザンヌのタッチとの根本的な違いに注意しなければならない。どちらも同じ基本単位(点、あるいはタッチ)を用い、限定され決められた色の組み合わせを用いてモチーフを描くところは同じだ。ただしスーラの目的は混色をしない純粋な色彩を用いて描くことであり、そのために光学的な理論から光学的混色を実現しようとする。だが、セザンヌのタッチは光学的にではなく、いわば示差的に組み立てられる。スーラの点描はドットを用いたカラー印刷と同じ原理で、距離を取ることで視覚の中で自然に混色される。それは人間の知覚構造に基づいて科学的に導かれる。

それに対して、セザンヌのタッチによって生まれる色調の変化を無理やり何かに例えるなら、コード進行のようなものだと言えるかもしれない。今鳴っているコードの印象(機能)は、それ以前に鳴っていたコードと、次に鳴るであろうコードによって決定される(今、の段階では完全には決定されない)。同様に、あるタッチは、画面の中にある別のタッチたちとの関係によってのみ、その機能が決定される。そのような意味でセザンヌのタッチは示差的なタッチなのだ。しかもそこに事前の約束事はなく、それはただ人の感覚を通すことによってのみ捉えられる。

たとえば、多くの人がなぜ「Just the two of us進行」に惹かれるのかについて科学的な根拠を示すことはできない。なぜかはわからないが、特定のコード進行(特定の示差的関係)は、多くの人に特定の感覚を呼び起こすということが、経験と蓄積によって知られるだけだ。

今、鳴っているコードの機能は、次のコードやその先の展開に開かれていて、「今」の段階では決定できない。しかしそれでも、先の展開や解決の形をある程度は予測ができ、聴き手はその解決への予感をもつ。そしてその予測・予感は、当たったり当たらなかったりして、演奏が終わるまで、予測・予感はさらに先の展開へと開かれ、続いていく。

セザンヌの絵画における、それぞれ自律した、基本単位としての「タッチや限られた色調」と、それが表象する「事物や空間」との関係は、ここでいうコードと機能の関係にたとえられるのではないか。セザンヌは、モノの形や表情の直接的な似姿を描くのではない。規則的に刻まれるタッチとタッチとの示差的な関係の中から、モノや空間が浮かび上がるように描く。見る者は、何かを完全に捉えることはなく、タッチを見ようとしてモノを見てしまい、描かれたモノを見ようとしてタッチを見ることになってしまう。

セザンヌのタッチは、知覚構造によって自然な着地点が定まっているスーラの点描とはことなり、結像する着地点(モノ、あるいはタッチ)は予想・予感を通じて現れる仮のものであり、見ようと思うとすり抜けてしまう。さらに見続ける限り、どこまでも先の展開への開かれがあって完全には完結しないという構造をもっている。

Montagne Sainte-Victoire, Paul Cézanne (1904) Montagne Sainte-Victoire, Paul Cézanne (1904)

Seated Man, Paul Cézanne (1905-1906) Seated Man, Paul Cézanne (1905-1906)

7.

セザンヌのタッチとは異なり、アルバムジャケットの画像を構成する単位である「砕かれたタイル」の形は一様ではない。また、セザンヌのタッチは互いに重なり合い、混じり合う(排他的ではない)が、タイルの切片は重なり合うことはなく(排他的であり)、互いの領土の間に空白部分(隙間)がある。

タイルの形は一様ではないが、無限に多様というわけでもない。基本として、辺が曲線であることを許容する四角形、あるいは三角形であり、その一部が欠けることで多角形化することがある、というくらいのバリエーションの範囲に収まる。円形や星型のような特徴的な形はない。サイズ感も、一部例外はあっても、大きめのタイルと小さめのタイルという二種類に分類可能で、極端に大きかったり小さかったりはしない。

つまりタイルの切片の形とサイズは、細かく見れば多様であるが、大別すれば二種類に分けられるという範囲での多様さだ。形としては、四角形に準ずる形(比較的フラットで弱い方向性しか持たない形)と、三角形に準ずる形(一角が鋭角的に尖っており、強い方向性を持つ形)という二種類にに分類できるし、サイズも、大きいクラスに入るサイズと、小さいクラスに入るサイズの二つに分類できる。このような示差的二項対立の範囲内にあることによって、多様なニュアンスと、一定の秩序を持ったリズム感とを両立させることができている。

タイル状の切片たちは、スクエアなフレームの内部で、排他的に、自らの領土を主張して押し合いへし合いしている。ただ、この押し合いへし合いは、分析的キュビスムの作品が、浅い空間における手前と奥との振幅を作り出していたのとは違って、前後にではなく、画面の表面に沿って水平方向への運動を作り出している。そこには、水にインクを垂らしたときのような、渦が渦を巻き込むかのような、複雑で多重的に旋回する運動性が感じられる。

加えて、タイルの切片のサイズには二つの種類があった。画面上には、大きなサイズの切片たちが作り出す運動=流れがあり、同時にその中に、それを縮小反復するような小さいサイズの切片たちが作り出す運動=流れが埋め込まれている。つまりここには(二層しかないとはいえ)、フラクタル的な構造を予測・予感させるような構造が出来上がっている。

8.

整理してみよう。『An old warrior shook the Sun』のアルバムジャケット『儚葉曼荼羅』では、以下の三つの出来事が同時に成り立っていると言えるだろう。

(1) 表象された、植物が繁茂する図像によって生み出される表現性と運動性があり、そしてそこには、エッシャー的な図と地との反転構造が仕込まれている。また、この図像は、装飾的でもあるが、空間的でもある。

(2) 凝集的な濃紺と、拡散的な黄色という色彩の対比と、その二つの色彩の関係に巻き込まれつつ、対比を中和し媒介する、抹茶色、黄土色、焦茶色による、複雑なトーンの推移・展開があり、それによって生まれる運動性がある。そこには、主に中間のトーンに顕著に見られる多様なテクスチャーによって作り出される豊かなニュアンスの変化が加えられる。

(3) 画面を構成する単位である「砕かれたタイル」の形たちが、押し合いへし合いしていることによって生まれる運動性があり、そしてその運動性は、大きなサイズの切片が作り出す運動に小さなサイズの切片が作り出す運動が埋め込まれていることで、フラクタル性を予想させるような二層構造になっている。

これら、(1)、(2)、(3)の要素は、それぞれ単独にあったとしても充分に作品を支える強さと表現力を実現し得るものだろう。だがこのジャケットの画像では、このような三つの次元の異なる表現性・複雑性が、重なり合うように共存している。そしてこの、異なる三つのものの「重なりとズレ」によって、遠近法的、三次元的な空間性とは別種の空間性が実現されていると言える。

『儚葉曼荼羅』は、近代絵画のいくつもの達成を踏まえつつ、それを超えて、まだその「先」があることを感じさせるものだ。(了)

古谷利裕 (画家・小説家)
2024.12.18